只管打坐
只管打坐(しかんたざ)という言葉をご存じですか。
この言葉は、ものの本によれば禅宗の用語で、雑念をいっさい捨て去ってただひたすら座禅を組み、修行することを指しています。転じて、ただひとすじに、一つのことに集中することを指すそうです。
これは道元の教えなので、1200年代半ばの頃の話になります。1200年代と聞いても、あまりに昔のこと過ぎて想像は出来ませんが、当時の日本人の平均寿命が24歳と聞くと、隔世の感があります。そんな時代に、道元は、上記の教えを思いついたのです。
僕がこの言葉を知ったのは、高校の倫理の授業でした。高校生の社会の先生というと、変わった人が多いですが、この先生は特に変わっていて、インドのガンジス河で病気の危険を顧みず沐浴をしたり、一年に一度、ホームレスの人になりきって生活してみたり、全国の競艇場に精通していたりと、とにかく変わった先生でしたが、その分、発せられる言葉には重みがありました。この先生の影響で、僕は後年、カンボジアを旅するのですが、今回のテーマではないのでここでは触れません。
閑話休題。
要するに、何が言いたいのかというと、時を経ても人間の思慮に関する真理は不変で、ある一定の言葉には聞く価値があり、そして現代でも通じるということです。そしてそれは、ともすると、長い時代を経て醸成された分だけ、むしろある種の新鮮さを伴って、僕たちの奥底に訴えてくるような気がします。
僕は長年、たくさんの生徒に出会い、多くの子供たちが只管打坐の境地に達するのを見てきました。それは、道元の教えのほんの一部に過ぎないかも知れませんが、子供たちが、全ての雑念を捨て去り一心不乱に勉強する姿は、時に尊くすらあります。そして、この一連の経験こそが、勉強を通して得られる真に大事な部分であるように思えます。
勉強は何のためにするの?という問いに対して色々な答えがありますが、僕は「只管打坐の境地に達し何か一つのことを一心不乱にやり遂げた」経験そのものが、人生においてきっとかけがえのない経験であるし、そしてたぶん、一つの正解のように思っています。
みなさんもぜひ、勉強を通して人生を豊かにする「何か」を得てみてください。それは人生を何倍も素敵にしてくれると思います。
以上、栗原がお伝えしました。